「ジョルジュ・サンドと著名性」『立教大学フランス文学』第49号、2020年、立教大学フランス文学研究室、pp.83-98
のちにジョルジュ・サンドとなるAurore Dupinは1804年7月にパリで生まれ、18歳でカジミール・デュドヴァンという男性と結婚してデュドヴァン男爵夫人になった。1832年に発表したオロールの処女作Indianaには最初G.Sandと署名され、その後George Sandとなったので、『アンディアナ』の読者たちは当初作者が男性だと思っていた。なぜGeorge Sandという筆名にしたのか、20年近くあとに書かれた『わが生涯の記』の説明をそのままうのみにすることはできないが、いずれにしても、Aurore Dudevantという本名を使用することは家族、とりわけ夫の家族への配慮上むずかしかったこと、また、女性名よりも男性名のほうが『アンディアナ』という本を売るうえで有利であったことは明らかである。
『わが生涯の記』においては、最初の部分で、ジョルジュ・サンドという作者の名前ゆえにこの本を手にする読者と作家の駆け引きがあり、彼女の著名性のみにひかれてこの本を読もうとする読者への警告がなされている。そして、当時の一般読者が興味を持っていたであろう、サンドとミュッセや、彼女とショパンとの恋のいきさつやその破局についてはこの回想録ではまったく語られることはない。それではこの本では何が語られるのか? この長大な作品の最初の3分の1ほどが彼女の誕生以前、自分より4代前からの家族の歴史にあてられている。この作品は、父方及び母方の家族、18世紀フランスの貴族階級と庶民階級にまたがる家族のhistoire、つまり歴史を物語ることによってフランスの18世紀を、そして彼女の子ども時代や若い頃の体験やそれにまつわる印象、出会った人物や見聞きした出来事を書き記すことによって19世紀前半を概観し再確認しようとする試みであり、この本にジョルジュ・サンドという著名人のスキャンダラスな生涯の打ち明け話を期待した読者は当然のことながら大変失望したのであった。
次に『旅人の手紙』を見てみよう。これは1834年から36年までのあいだ雑誌に掲載された公開書簡で、のちに単行本にまとめられた作品である。この時期のサンドはミュッセとの恋、その破局、高名な弁護士ミシェル・ド・ブールジュとの恋、フランツ・リストやマリー・ダグーとの交流など、その一挙手一投足が注目を集めるセレブリティであった。しかし、『旅人の手紙』の全書簡の書き手はジョルジュ・サンドという名前の年とった男性ということになっている。それにもかかわらず、ジョルジュ・サンドがオロール・デュドヴァン男爵夫人のペンネームであることを当時の読者はみな知っており、あらかじめ一種の「共犯関係」とでもいうべきものが成立していたのであった。だから、語り手の仮装は大変薄いものにすぎず、あちこちでオロールその人が顔を出している。この作品によって、「才能がありスキャンダラスな若い女性」であるとともに「人生経験豊かな年配の男性」でもあるジョルジュ・サンドという一種の両性具有イメージができあがったのであった。そして、1876年6月に死去するまで、ジョルジュ・サンドという男性名のペンネームを巧みに利用することによって、オロール・デュドヴァンは長い人生の最後まで自身の著名性とうまく折り合いをつけてくことになるのである。